岩崎明日香さん(日本民主主義文学会) インタビュー

ぶん文訪問記③
 岩崎明日香さん(日本民主主義文学会) インタビュー   2021.5.17. 青年劇場にて
 今回はインタビュー会場は青年劇場応接室。時間より早く清楚なワンピース姿で現れた岩崎さん。2016年、「角煮とマルクス」という作品で、第13回民主文学新人賞を受賞。「高校の時演劇部に入っていた」と聞いて、インタビュアーの森路敏さん(東京芸術座)と記録係の福山(青年劇場)は一気に親近感アップ! 落ち着いた、優しく熱のこもった言葉で文学への思いを語って下さいました。
先輩の遺志を継ぎたい
―「角煮とマルクス」、主人公の揺れ動く気持ちが伝わって、興味深く読ませていただきました。岩崎さんが小説の世界に足を踏み入れたきっかけは?
岩崎 高校時代に部活で演劇部に入っていまして、元々舞台とか、創作脚本に関心があって、高校時代は創作劇をいくつか書きましたけど、「向いてないな」と当時は思いまして、大学では文学を研究する側を志しました。文芸評論の方に関心があったんですが、卒業して仕事を始め、その傍ら小林多喜二や宮本百合子の小説や評論をよく読むようになりました。それがきっかけで、評論を中心に民主主義文学会に参加しました。
そこで、宮本百合子が新しい文学の創造――特に、いろんな困難や女性差別などの問題に直面しつつも、それを変えるために立ち上がっていく人々の姿を描こうとしていたことに非常に感銘を受けました。文芸評論だけでなく、創作の世界でも、戦前の文学運動の先輩の遺志を継ぎたいという思いで、小説を初めてみようと思い、最初に書けるのが自分の体験だったので、それをまず書いてみたのが「角煮とマルクス」という小説でした。
個人的なことと社会的なこと
―文学では個人的なことと、社会的・政治的な問題を繋げるのが非常に難しいと思うんですが、「角煮とマルクス」では等身大の主人公の中ですごく自然につながっていると思います。
岩崎 ありがとうございます。小説でも、舞台でも、個人的なことと社会や政治との結びつき、特にそれを変えようとする人間を書くっていうのは、本当に難しいなと思っています。
 「角煮とマルクス」については、自分の体験を小説の題材にする以前に、いろんな場で語ってはいました。大学の高い学費の問題や、母親や姉がどんなに頑張って働いても暮らしが良くならないという矛盾、それは自己責任ではなくて社会の問題であり、仲間と運動して学費値上げをストップさせるなどの体験を通して、自分自身も変わって行ったこと、また、「諸悪の根源」と思っていた父親に対しても葛藤を経て見方を変えていったということを、折々に語って来ました。それを小説に置き換えたので、書きたいものがはっきりしていて、比較的すぐ書けたのかなと思います。
―方言がいいですね。方言の力をすごく感じました。
岩崎 「方言と、今の若い世代に近い言葉が自然に入っていた」と言ってもらったこともあり、非常にありがたいなと思いました。方言は、地方の問題を含めて大事にしていきたいと思っています。
―私の生まれは熊本なので、作品の背景にある地方の郊外の閉じた世界の感じはよくわかります。長崎が舞台なので、キリスト教の礼拝に行くかどうかという信仰の問題は地域特有のものかもしれないけれど。「あそこの家は」と陰で言われるような閉じた世界は痛いくらいよくわかります(笑)。うちは父が教師で、組合にいるだけで「アカ」と言われかねないような土地柄でしたから。
岩崎 読んだ方が、「自分の家族のことについても語ってみたくなった」「書いてみたくなった」と感想を寄せてくださることがあって、それは一番うれしかったです。私自身が宮本百合子や小林多喜二に影響されて、今の社会の中で一人一人がどう置かれているかを「自分はこういう風に見ている」と発信したくて書いたので。読んだ人が自分自身の書きたいものを見つける機会のひとつになって、作品がもっと生まれていったらいいなと思っています。
コロナ下でじっくり考える
―小説を書くのは一人の作業だけれど、人との関わりが大事だと思いますが、今コロナ下で人と人がなるべく接触するなという感じになっていますね。小説を書く上で困難を感じていることは。
岩崎 民主主義文学会では、地域などで支部を作って、例会を基本に創作や合評をしあっています。私も同じ支部の人たちの合評のおかげで創作や評論ができているので、集まって語り合えないと刺激がなくて厳しいところがあります。私は職場に支部があるので、会うことも例会もできているんですが、そうでないところはzoomを使ったりしています。有志で呼びかけて、離島にいらっしゃる同年代の書き手の方も含めて、ラインのグループを使って創作のスキルを高めあう交流をしたりもしているそうです。この間SNSによって逆に交流が深まったところがあるのはいいなと思っています。
 私個人は、家に籠る日々の中で、改めて長い古典を読み直し、自分がどう生きていくのかなどをじっくり考えられる機会になったし、文学の先輩たちが疫病や戦争を含めた困難な時代の中で、表現を通して生きる糧を自分で作って他の人に分かち合っていったのかを改めて学ぶ機会になって、自分ももっと役割を果たさなければと思わされています。
学費値上げ反対の運動の広がりに心洗われて
―今、書きたいものは。
岩崎 今からということではないんですが、1年前に「プリザーブドフラワー」という短編小説を書きました。題材は自分の大学時代、2005年の話で、学費が高くてどうやって学生生活を送っていこうかと悩んでいる学生が、学費値上げ反対のデモに初めて参加する過程を描いた作品です。途中まですごく苦戦して、一回『民主文学』編集部に提出した後、自分でも「このままでは世に出せない」という思いがあって、少し寝かせていただいたんです。
その後、それをなんとか書き上げようという気になれたのは、今の学生の皆さんが、コロナで大学にも行けず、授業も受けられず、オンラインでも大変で、ゼミやサークル活動などの交流ができない。それだけでなく、アルバイトで生計を立てて学費も賄っていたのに、バイトもできなくなり、シフトがカットされるという状況の中で、「一日一食で生活している」など困窮を強いられている。その中で学費の運動が、たぶん今世紀ではこんなに広がったことはないというくらいに広がって、私の妹もその中で非常に頑張っていました。それを見て「ああ、この学費の運動は切実な現代の課題だ」と思い、15、6年前の話であっても今書く意味はあるだろうと、今の学生の皆さんに連帯する思いで書きました。
 15、6年前の話なので、ある程度の記録は今も取ってあるんですけれど、思い出して書くのは難しいですよね。当時の私と今の私では生活感覚も社会に対する見方も違いますし、今は「自己責任論」を乗り越えた後なので、大学入学時のことを新鮮な気持ちで書くのはなかなか難しい。乗り越えた後だとスルっと予定調和的に書けてしまって全然面白くない。最初の原稿はそういう状態でした。当時の、まっさらな学生の気持ちを突き詰めないといけないと悩んでいた時に、学生さんたちが大変奮闘されている姿に心洗われて、もう一度真剣に思い出そう、丁寧に書こうという気持ちになれて本当にありがたかったです。
若い作家の変化
―一般的に文学に社会問題を盛り込むときに、受容され方の難しさもあると思います。僕も文学を読んでいましたが、多喜二・百合子のように社会問題を含んだ作品より、すごく個人的な問題を扱った作品をずっと読んでいたような。最近変わってきたという手ごたえはありますか?
岩崎 文学は先人のすぐれた作品を吸収して、その模倣から始めて自分の作品を書いていく側面もありますが、日本の近代文学には非常に狭い、特に家の中の問題を書いている作品が少なくありません。そこを打開していくところまでなかなか踏み出せない、その葛藤を延々と描いて、筆のうまさを競い合っているようなイメージがありました。ただこの間、日本の文学の、特にエンターテイメント系の方が非常に健闘していて、若い人の働き方――過労死・過労自死に追い込むような酷い現状を告発的に描いたり、沖縄の基地の問題に向き合ったり、そういう作品が出てきたのは非常に希望ある流れだと思います。
純文学の方でも、私が「角煮とマルクス」を書いたころ、芥川賞候補にもなった崔実の「ジニのパズル」という作品が、在日韓国人の少女がこの世界に対して「革命」を起こそうともがく姿を描きました。そういうパワーが純文学の中にも生まれている。運動や社会変革などのテーマを書くことも求められていて、それを読み手に感動と共感を与えるような作品に高められるかどうかが今後の課題だと思います。これまでの狭い文学に飽き足らない、社会性を求める流れは確実にあるし、それに応えて書きたいという人も私の周りに生まれてきているなと思っています。
 「角煮とマルクス」という作品を書いた後、「十九時の夜明け」という小説を書きました。居酒屋チェーン店でアルバイトをしている20代前半の女性が、酔った客からセクシャルハラスメントを受けるという作品で、労働の問題とジェンダーの問題を書きたいと思って書いた作品です。それに対して、民主文学会の会員ではない同年代の女性の作家の方が、いわゆるブラック企業の問題で作品を書こうと思って国会図書館で色々調べたら私の作品に偶然行き当たった、社会を変えようとする人を描いているという点で非常に注目したと言って下さって、その後いろんな交流をさせてもらうことができました。そういう人は身近な所に限らず増えていると思いますし、今後さらにそういう傾向が広がっていくんじゃないかと思います。
自己責任論に抗して
―変えたいと思っていても、私たち一人一人が社会の中で孤立して生きていて、なかなか実際に変えていくというところへ行けないという実感があります。「角煮とマルクス」は本当に等身大でスッと入っていける。「ああ、同じなんだ」という感じがしてヒリヒリもしたし、いいなと思いました。
岩崎 小説で政治的な問題も含めて書こうとすると、つい演説的に登場人物が説明してしまう。そっちのほうが早いし、正確に情報を伝えなければという書き手の思いがあるので、そうなりがちな難しさはあると思います。なるべくそれをしないように、家族同士の会話から、教育の問題とかを描きたいなと。
 一番書きたかったのは、自己責任論の問題でした。社会に広げられてきた自己責任論が、極限状態の人々を死に追いやってしまうほどの影響力を持ってしまっている。でも、例えば自分の父親のように、暴力事件を起こした加害者であったとしても、命を失って当然ということでは本当はいけないんじゃないか。そこにたどりつくまでに何年も主人公はかかるんですけど、それが一番描きたかったことです。
「死んでいい人なんていない」ということをただ一般論で語るだけでは、そうでない現実が毎日こんなにもある中で、本当に人の心に響くのかということがあると思うんです。単なる綺麗事にさせないために、主人公の等身大の葛藤や、自暴自棄になりそうな感情も含めて描いていく。一番書きたくない場面――留置場に面会に行く場面は、自分自身も記憶があいまいに消えている部分があって、多分思い出したくないところだったと思うんですけれど、それを掘り出すことも含めて、向きあわないといけないなという思いで書きました。だからあの頃、本当に体が痛くて眠れなかったことがあって。「こういうのはあんまり書きたくないな」と書き終わった後に思った記憶があります。
9割の事実に1割の虚構
―俳優という仕事とはちょっと違うかもしれない。もちろん自分の記憶も掘り起こすけれど、役柄と自分は違うから。もっとヒリヒリすることなのかな。
岩崎 でもフィクションにするからこそワンクッションおいて書けるというのは小説のいいところかと。
―そこは演劇と似てるかな。思い切って書けるという。
岩崎 そうですね。「角煮とマルクス」という作品は9割が本当のことで、ほぼ自伝的な小説ですけれど、そこに1割の虚構を投入することで小説として成立するというか、ワンクッションおくことで客観的に見られるということがありますね。あったことをそのまま書いていても作品としては成立しないので。フィクションを混ぜることで「現実の私とは別物なんだ」と割り切って、しんどかったことも含めて向き合えるということがありますね。
―おばあさんがすごく信仰熱心な方で、家族を教会へ引っ張り出そうとするじゃないですか。その時に、主人公の反発とは別の、お母さんの生活者の知恵みたいなことがちゃんと描かれているのが興味深かった。
岩崎 祖母は、いわゆる満州に戦時中に行って、自分の最初の子どもを現地で失ってしまうんです。二番目の子どもも引き揚げの際に連れて帰れるかどうか切羽詰まって悩んだけれど、一人目を失ったことを思うとどうしても置いて行けず、帰国後も大変苦労して生きてきた。そのつらさを生き抜く上で彼女は信仰を心の支えにせざるを得なかった、そういう戦時下の女性だったんだろうなという思いはあるんですけど。
―そういうズレも面白く読みました。主人公からすると「許せない」という思いと、母は母で関係性が違うから、「しょうがないのよ」という生活者の感覚と。
岩崎 今言っていただいて、自分でも納得しました。祖母も社会の中で翻弄されてきた人だという思いと、自分個人にとっては因襲に囚われた人というか、父親の最後の時も酷な場面を子どもに見せるなんてという腹立たしい生の感情と、両方あるんです。理性の上では、苦労させられてきた女性の大先輩だという思いもある。母親は実際ああいう対応をする人なんですけど、母親の口を借りて、自分の中にも本来ある祖母に対するリスペクトを語ってもらったのだと思います。そういう面でも、小説の形にするっていうのはいいなと改めて思いました。
「源氏物語」に癒されて
―百合子・多喜二の他に好きな作家は?
岩崎 元々は10歳の頃から「源氏物語」が大好きでした。大学も「源氏物語」研究を志して、卒論も書きました。今も紫式部と宮本百合子が最も尊敬する作家です。あとは海外で言うとロマン・ロランは好きですね。
―10歳で紫式部って、何かきっかけがあったんですか?
岩崎 小学校の図書館にあるような、日本の古典文学をジュニア向けにわかりやすく紹介するシリーズがありまして、瀬戸内寂聴さんの「源氏物語」の訳を読んで夢中になってしまいました。当時うちの父親が暴力をふるったり、一家で夜逃げもしたりした時期でした。少し生活が落ち着いた頃も、家の中は荒れていた。子どもにとっては家庭がそういう状況になると、この世のどこにも逃げ場がないような精神状況になりますので、文学の世界に助けを求めていたんですね。
「源氏物語」の中に沢山の女性が出てくるんですけれども、当時貴族の女性は一切外に出られなくて、立って歩くことすら下品だとされていた。特にあの作品の中では男性に依存してその感情にすがって生きるしかない自分のむなしさ、腹立たしさ、もっと本当は自分にもいろんなことができるのに、なんで女はこんなに悲しい生き物なのかという女性の思いが描かれています。光源氏が最も愛した紫の上でさえ、「本当に女ほどかなしいものはない」と言っている場面があります。あの中の女性は最終的に出家をしていく人が多いんですけど、こんなに美しい物語文学が、こんなにリアルに生の感情を描いているんだということにとても感服しました。現実世界から遠い千年前の世界ですから、現実逃避としてどっぷりつかれて、夢中になっていました。そういうシェルターとしての文学や芸術の役割――今もコロナの中で芸術に浸っている間に自分を癒すということを実感しますけれど、当時の家庭内の困難の中で自分にとっては文学・芸術がそういう存在だったんだなと思います。
感情を書いて残す
―書かれたものに癒されることと、書くことで癒されるということと両方あるような気がしませんか。
岩崎 それはありますね。書かないと自分がその時本当はどう思っていたか忘れてしまいます。特に感情は忘れやすい。手帳などの日記にも、予定や事実は書いていても、感情は書かれないことが多い。感情は変わっていくのが当然なので、書いて残す、書こうとすることで思い出して自分の人生を生きなおして再発見するというのはあると思います。人によるかもしれないけれど、DVを体験したり、幼少期に暴力的な環境があったりすると、その後も精神的に不安定というか、負の、マイナスエネルギーに引きずられて呑み込まれるような危機に長い間直面せざるを得ない。私自身、周りの人に八つ当たりしたり、それでまた自己嫌悪に陥ったり、人間関係の困難を感じてきましたが、書くという営みは、中身の巧拙はともかくとして、私にとっては建設的でポジティブな営みでした。自分の再生や回復を図るという点でも、書くということは非常に大事な行為だったと思います。
―私も書きたい欲求はあるんです。(笑)
岩崎 ぜひ。
―ずーっとそう言ってるんだけどなかなか。問題が大きすぎたり生々し過ぎたりるとなかなか書けない。もうちょっと頑張りたいと思ってます。戯曲は小説と違った難しさはありますけど。会話は両方大事ですね、なんということのないことでも。「角煮とマルクス」の、角煮を焦がすところが面白かったな。「あ」ってこっちも声が出そうになる感覚があって。
岩崎 ありがとうございます。会話文は、高校時代に創作劇で友達同士のやり取りを書いていた経験がすごく自分のためになっていると思っています。創作劇を一回体験すると、小説って好き勝手に舞台装置とか、場面転換の物理的な問題とか一切考えずに地の文で説明して、こんなに楽をしちゃっていいのかと(笑)。もちろんそれだけじゃないと思いますけど。舞台は、照明や音楽なども含めて総合的な芸術としての他に代えがたい優れたところがあるので、難しさの中にいろんな可能性があると思います。
文学のすそ野を広げる文学運動
―民主主義文学会って岩崎さんにとってどんなところですか。
岩崎 創作は基本的には一人の、個人の営みではありますけれども、民主主義文学会に入って、文学運動というのは本当に励まし合って高めあって行うものだと教わって、非常に良かったなと思っています。入ってなかったら書いてなかったし、書いても一回きりで終わっていたと思います。特に今、いろんな所の支部の方が編集・発行された支部誌や、文学会に限らず、いろんな地域の同人誌を読ませていただいています。それらの作品は社会を映し出していて、それぞれの地域で働く人の現実や、ジェンダーをめぐっての描き方など、いろいろ学ばせてもらっています。
文学って売れるかどうかの問題だけではなくて、一人一人が身近なところで、他の人とのかかわりの中で「自分も書いてみようかな」と刺激を受けて、文学・文化のすそ野を広げていくことが非常に大事だと思っています。日本の文学全体も、商業主義と一部の作家だけの関係でしか回らなくなったら、貧しくなっていってしまう。売れるかどうかだけの世界になっていくかなと。
戦時中、宮本百合子が弾圧を受けながら頑張っていた時代を見ると、戦争や活動のことは検閲・削除の対象にされて自由に書けない。すると非常に題材が限られてますます世界が狭くなったり、文学的なうまさ、技術だけをもてはやされたりすることが続きました。女性の作家たちももてはやされた。「これまでこういう作風で売ってきたでしょう、こういうのを読者は求めているから、これが売れるから」と、その人たちはすでに貧しい生活を抜けて、作家として一見華やかな生活に入っているのに、かつて売れた作品の中の女性像をポーズとして粉飾して再生産していく。商業的に求められるものがその作家を規定していくようになってしまった。そのことを全面的に宮本百合子が書いている評論「婦人と文学」を改めて読みなおして、国家が求める文学と、売れるかどうかの文学というだけでは、こんなに文学というのは死んでいくんだなと痛感しました。個人の内面から自発的に生まれていくものではなくなっていく。一つ一つの作品はいろんな未熟な面や可能性を秘めている段階であっても、誰からも強制されるわけではなくて、自分が書きたい、これをこの世に訴えたいということを保証して、作って、広げていく、そういう文学運動がやっぱり大事だと思っています。
ありふれたものをありふれないで書く
―「文化はありがたいもの」みたいになっていくと、面白くない。もっと普通のものになったらいいなと思います。文学も演劇も、面白さの質はいろいろなはずで、「この劇場でやっているものが面白い」だけになってはね。
岩崎 ほんとにそう思います。私たちの日常生活の中にある現実や感情を、その人にしか書けない、見えないやり方で書くということが大事なんだと思います。
―私もバイトしながら演劇をやっているので、きつい反面、創造者として糧になってるところがあると思います。出会う人や、仕事のしんどさも含めて面白いなと思うこともあります。それを人に伝えるのは難しいけれど。
文化を支えている人がコロナで苦しんでいる
―文学にはコロナの影響は?
岩崎 私は直接の当事者ではありませんが、印刷会社が直面している状況は深刻です。作家にとっては紙の本が売れないことが苦しい。職業的な作家でなくとも、たとえば小説同人誌の即売会のイベントなどが中止になって、手弁当で頑張っている有志の人や、印刷会社も含めて文化を支えている人たちも大打撃ですよね。そういうことも含めて文化を守らなくていいのかと不安が募っています。これは文学に携わる人たちの状況を見ての私の個人的な危機感です。電子書籍があるから巣ごもり需要で楽しめるじゃないかっていうのも一部あるかもしれないけれど、紙の本はいろんなこだわりがあって、装丁や、遊び紙一枚だってそれを支える作り手の人々がいてこそ世の中に良い本がでているわけで、それらが失われていいのだろうかと思います。また、営業面で打撃を受けているところには必要な補償を求め、それが行き渡るまで実施させるということは本当に大事だと思っています。
―電子書籍は便利だから私も使ったことはありますけど、そうするとますます売れ筋の本しか売れなくなるという傾向が強くなりそうですね。今日は本当にありがとうございました。